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ユーモアが好きと言っておきながらただのはけ口

闘い

卒論の季節です。
私の所属学部では、異なるゼミに最大2つまで入室できる権利があります。卒論の執筆義務はゼミによって異なります。つまり、ゼミに入ろうが入らなかろうが、卒論を書こうが書かなかろうが卒業ができてしまいます。
 
私は2つゼミに所属しています。ゼミAとゼミBとしましょう。
ともに4年次の単位認定は卒論の提出を持ってなされます。単位取得の選択肢はゼミ以外にも存在するのに、自ら首を締めていると思われても仕方がない。
 
運が良く、どちらも「アジア研究」さえ擦っていればテーマは自由なのでそれには困りません。厳密にいえば、ゼミAは2年次からずっと「アジア研究」、ゼミBは2年次だけ「インド研究」がテーマでした。本当はゼミBでなくて都市構造論とか観光事業論を扱うところに入室したかったんですが、落ちちゃったんで妥協した形です。
結局インド研究のゼミBでも都市構造やりたーいってなって、西葛西とクアラルンプールのインド人街度合いを比較したレポートを書きました。そこで移民研究に関心を抱くようになります。商学部ゆえ、教授もその道のプロではないし自分も手探りなのでそこまで踏み込んだことはできていませんが。
 
で、結局ゼミAでもBでも在日ベトナム人(在留、が正しいらしいけど日本に住んでいる、ということを強調したいので在日、としています。在日〇〇大使館とか言うでしょ)の研究をすることにしました。やはり全く違う2本の論文を扱うのは大変ですから。ただ、全く一緒なのも面白くないので、Aでは自治体レベルで取りくむべき政策について、Bでは日本語能力が就労内容に及ぼす影響について、と棲み分けさせました。んで、先日Bの提出が完了。A4にして参考文献含めて18ページなのは我ながら頑張ったと思いましたが、他大の友人は95ページ書いたらしいっす。学部生なのに。
 
執筆の理由づけとして「卒業」を挙げる人がいます。私は違います。教授との喧嘩別れという最悪の事態を想定したため、論文を提出しなくても卒業要件は満たすようにしたからです。
 
なので、いつからか私は論文執筆の理由を「闘い」としました。
 
執筆を終わらせるための「自分との闘い」?たしかにそれもあります。恣意的にしない、論理を飛ばさない、とか。ですが、大げさながら「世間との闘い」とも捉えています。曖昧な定義に逃げる人々との闘い。ニュースとは名ばかりの仲良しコミュニティにいる人々との闘い(大手メディアのことではなく…以下略)。偏見や無理解との闘い…挙げればキリがありません。
 
人間、だいたい年取るほど経験値が増えるので、若気の至りが痛々しく見えると思います。年取った自分が見ても痛々しくないように、今の経験値を使い切れるだけ使い切って闘いをいったんは終えたい所です。