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ユーモアが好きと言っておきながらただのはけ口

自粛

ナショナリズムがあるのなら、私はジェネレーショナリズムも存在すると思います。つまり、共同体的な意識と排外性が国単位で見られるのなら、それは世代単位・学年単位でも見られるのではないか、ということです。団塊の世代団塊ジュニア、Z世代、などがよく言及されていますが、それぞれの思想やパワーバランス、経験を体系的に表す学問分野が出てきても面白いかもしれません。誰か確立してくれないかなぁ。

ジェネレーショナリズムの構成要素になりうるのは歴史や流行の経験、任意の時点での年齢でしょうか。そこから主義・思想や世代間のパワーバランスを導き出す感じでしょうかね。あくまで学問としてのアプローチであるので個人経験から主語を大きくすることはできませんし、世代について論じるので、個人の詳しい思想まで関与できない事は留意したいところです。

じゃあ私の世代はどうなるのでしょうか。ちょっとだけシミュレーションしてみます。 まずは歴史・流行の経験から見ていきましょう。現在生きている人間すべてが例の惨禍に見舞われていますが、それよりも前の記憶も決して忘れられるものではないと思います。つまり東日本大震災です。私の住む埼玉県であっても、その揺れは恐怖でした。訓練でしか行われなかった引き渡しがなされました。テレビでは黒い海と壊れた家と炎と煙と小さな車、泣き叫ぶ人々。そしてずっとニュースとAC。おっと、関東主観論になってしまった。

自粛ムードってここでも経験していたと思います。あまりにも死者数・行方不明者数が多かったことへの追悼の意ということでしょう。ざっと見たところ、ライブや演芸、花見、新幹線開通セレモニー、結婚式などがその範疇にあったようです。考えてみれば中学の入学式という節目もそうでした。入学「式」という名前にしていなかっただけで、校歌斉唱とか顔合わせとかはありましたけど。 で、去年と今年。こちらも節目です。学生生活が終わるタイミングです。「初詣」に記載したような「青写真」がゴミ箱にぶん投げられているのです。節目として今までの世代が当たり前に行えていた楽しみを奪われているのです。自粛どころかほぼ禁止項目になっているものさえあります。 つまり、節目の年に自粛ムードを余儀なく演出させられることは我々の世代に共通するものだと思います。

そんな我々は現在20代前半。自我が形成されており、社会に溶け込もうとする年代です。人並みに物事を考えようとする努力はしているでしょう。ここで、「自粛について考えてみよう!」というテーマが出されました。さて、どうする? 私は「多少はする」と答えます。飲み会や旅行をゼロにすることはしませんが、オンラインでやる、多くて4人できればソロで出かける、その上で自分でできる対策は怠らない、ということです。楽しみより不安が勝らないように、と考えた上での目安なわけです。なので、来月頭に4人で湘南へ素泊まりに行きます。一泊です。ひと様には、きっといろいろ思われるでしょう。ですが、今にとってのベストだと思います。何にもしないことによるモヤモヤが多少薄まるし、大勢ではないでしょう。しかし、これはあくまで私の考え方です。

先日、中高の同級生が石垣島へ8人くらいで4日間ほど旅行していました。別に彼らを貶めるつもりはありません。ありませんが、、、とても複雑です。自粛という圧力によってバネを跳ねさせたい気持ちはよくわかります。ある程度の我慢をしている人間の気にもなれと思います。その強要が悪い考えだとも思います。前線で疲弊する医者や公務員の努力が浮かばれない気がします。対策万全ならまあ大丈夫かとか思います。何より羨ましく思います。これが全てです。羨ましさを隠しつつ自粛警察に加担しているのが事実です。

 

結局、主義・思想を世代ごとに大まかに特徴づけることなんてぺーぺーの学部生の知識では不可能な気がしてきました。専攻も違うわけですし。同時にそれは第三者へ考えを強要する行為になりうる気がしてきました。ただ、今20代前半の世代、特に1998年生まれは節目に自粛ムードが蔓延っている、その事実を他の世代にも知っていただきたい次第です。先人の努力のおかげで幸い戦禍とはまだ縁遠い(と思いたい)です。が、茨木のり子の『わたしが一番きれいだったとき』に共感を覚えてしまいます。衣食住には困っていませんが、老後のために2000万円積み立てなければならないみたいです。あ、また話がそれた。 私の世代の様子さえ知っていただければ嬉しいです。どうしろとは言わないので。

 

2021.3.2