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ユーモアが好きと言っておきながらただのはけ口

今年の収穫

大学生を4年もやるとさすがに情報源には厳しくなります。形だけでも卒論を完成させなければならないからです。それなのについ最近まで「芸能ニュースはウラを隠している!」なんて本気で思っていたものですし、中学生の頃は2ちゃんのまとめ系に蔓延っていた思想の煽りも受けていました。
 
去年、親父は両親に(つまり私の祖父母に)Chromecastをプレゼントしていました。詳しい意図はわかりませんが、祖父はよくAbemaやニコ動の将棋実況を見ていたので、それをテレビでも見せてあげたい、と思ったのでしょう。
ご多分に漏れず、当然YouTube鑑賞も日課となります。
一定の年齢を超えた人にYouTubeを見させつづけると思想の怪物に飲み込まれるようで、祖父も被害者になってしまいました。なんとなくとっていた朝日を読売に変え、テレビは嘘だと言い、ニュースとは名ばかりのYouTubeチャンネル、それどころか顔や名前を出さないゆっくりボイスをラジオのように嗜む。
 
これは決してうちの祖父に限った話ではなく、知人のTwitterにも見られると思います。(主に政治に関して、)「マスコミが報道しない事実」を矛に敵対勢力を批判する。当然、同様に盾として味方勢力を擁護する。そんな名前も顔も明かさないアカウントによるツイートを「考えずに」再共有する人は少なくないでしょう。
 
癪なのが、どれも「部分的には事実」でありそうなことです。COVID-19はインフルより死者数が少ないから大袈裟だ、とか、上級国民だから国に保護されている、とか、某国はスパイを各国に送り込んでいるから受け入れを停止すべき、とか、これらのことです。これらは論理の飛躍や拡大解釈の産物なわけだから、「部分的に事実」っぽく見えてしまいます。
 
だから就活中の今年の春先、ようやく新聞を読むことにしました。大手3紙すべてではなくよりによって日経ですが。各種SNSや朝夜ニュース以外のTVなど、娯楽の範疇になるものからニュースを取得することを極力やめました。情報源が乏しい奴らが持っている矛と盾に屈するのが癪だったからです。結果情報を判断するためには自分しかいなくなるわけです。本当に孤独なプロセスだし、情報に対する判断が果たして「正しい」のかがわからない。ワイドショーが情報源だったり世代が違うゆえに考え方も違う両親ともズレを感じるようになる。それがまた癪。
 
考えてみれば私はコメディが好きです。どんなにメッセージ性が含まれていても、感傷的でも、照れ隠しというオブラートと化すからだと思います。卑屈な人間性を笑いに変える人、時事ネタに物申すかどうかギリギリで結局笑いを忘れない人、出来事の本質でないところにあえてフォーカスして笑わせる人…同時に知性うんぬんではないクールさを感じるのです。ただの個人的な感情や思想のはけ口ではないのです(笑いを忘れて物申すだけの某早口からは感じられないもの)。
「軽く笑えるユーモアを うまくやり抜く賢さを」とは、奥田民生の名曲の歌詞です。ご本人の意図はわかりませんが、私は世知辛い情勢に対しても対処できる標語のようにも捉えています。
 
だから、祖父が陰謀論めいたことを口走っても、突拍子もないボケを返してみて話をすり替えたり、家で見ている記者会見に不満をいう両親に対して「あのおっさんヅラだぞ」と言ってみたり。個人的に抱えている政治・社会への不満もちょっとかわいらしく言ってみたり。どんな立体的な物質も、見る角度が違えば見え方が違うのは当然だし、それを無理に矯正させるのが不可能に近いことを知ったがための結論です。私がズレていたとしても同じでしょうから。
 
2020.12.29